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このブログはほとんどノートとしての役割を果たしてきましたが、僕なりに「表現」そして「発信」する事に重きを置いたブログを創っています。
あまり硬い事は書かないつもりですが、日常的に感じた事をできるだけ自分らしく表現してみたいと思います。コレカラもご支援の程、よろしくお願い致します。 新ブログ:「嘘みたいに生きる」 http://tatsuwat.blogspot.com/ 遊びの本質に迫るキーワードとしての「嘘」。 それをレクチャーやアミューズメントとしてでなく、「生きる」という、ある種の真剣さを伴った世界観として捉えます。かなりマイワールドな雰囲気出てますが、お許し下さい。笑 それでは!新ブログでお会いしましょう◎ #
by tatsuwat
| 2009-04-30 14:08
| 告知
おもちゃは食器や道具のように「用いる」性質のものと並列するものではなく、むしろそこに「ある」性質をもつ建築物に近いのではないだろうか。ヨーロッパに建築物をつくらない建築家がいると聞いたけれど、それは結局、彼らが創造しているのはただのハコではなく「生活の場と生活の豊かさ」である(という意識がある)から成り立つのだと思う。おもちゃの世界もいいかげん、モノの呪縛から解き放たれた方がいい。プロダクトを生むという行為がほとんど無条件で「善」だった時代はあったかもしれないけど、今はもう違うと思う。
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by tatsuwat
| 2009-03-09 02:36
| おもちゃ論
前のブログを書き途中にしたまま新たに記事を書くというのもなかなかのものではなかろうか。すみません、、その気になったら書きます。
僕が文章の中で時々使う「人がモノに使われる」とは具体的にどういう事?と聞かれた時、「道に歩かされていること」と応える時がある。今日、まさにそんな場面に出会った。家の近くの路地を歩いていたら、5歳くらいの女の子とその母親が前方の十字路を横切った。その時に聞こえてきたのが「まっすぐ歩きなさい!」という母親の声。その子は道路脇の小さな梅の盆栽を見ようとしていた。 たしかに道はどこかへ向かうためのもの、一種の道具で、それを使いこなしている状態というのはたぶん、まっすぐ歩いている状態だと思う。道に沿って歩き、道が曲がれば自分も同じ角度で曲がる。そうすれば行き先にスムーズにたどり着ける。だけど、それからそれてしまう振る舞いだってある。それが道草だったり、寄り道やまわり道だったりする。迷子もそうかもしれない。本道からのブレ、つまり遊びだ。 こういう風に生活の中に織り込まれて存在している遊びの根源の部分は、例えばさっきの「まっすぐ歩きなさい!」という母親の一声で消え去ってしまうほど柔じゃないと思う。母親に手を引っ張られながらも子どもの目は懲りずに次の「おもしろそうなもの」を見つける好奇心の眼差しに変わっているだろうし。だけどそういう場面が増え続けたとしたら、いちいち子どもの遊びが生まれそうな時に、寸止め(笑)みたいな事をされたら、どうなるだろうか。それが、心配なのです。 ここで僕は「親は子どもの歩調に合わせるべきだ」とか「子どもの気が済むまで待つべきだ」という事を押し付けがましく言いたいのではないし、むしろそういう「子に尽くす」タイプの子育ては、どこか親が犠牲的に関わっているような印象を受けて違和感がある。お母さんの都合だってあるのだし。(もちろん、それは乳幼児だったり、いろんな場面によっては必要な事もあるけども) ただ、子どもの生活全体を見渡した時に、幼稚園、学校、習い事などなど、子どもが大人の干渉を受けずに遊べる機会は減少しているという事と、そんな中でも唯一まだ可能性があるのは、家と学校、家と習い事をつなぐ「道」であることは、意識しておく必要があるかもしれません。 もうすぐ春です。(もう春?)黙っていても街が色づき、虫が飛び交い、鳥がさえずり、子どもたちを誘惑し、、、 大人だって、道草するのが素直でしょうきっとたぶん。 #
by tatsuwat
| 2009-02-15 22:06
| おもちゃ論
「遊び」と「遊ぶ」は、つまり品詞がちがうだけなのだけど。これは考えてみるとずいぶん深いことになっちゃってる。僕なりの今のところの定義を書いてみます。
「遊び」というのはひと言で言えば、「ぴったりしていない状態」だということ。木組みと木組みの隙間がガタガタしてるようなものです。あれも大工用語で「遊び」といいます。あとは、美容師の友人が言っていたのだけど、髪型でも、ピシッとせずに、毛先をねじったりはねさせたりするのを「遊び」と言うそうです。 子どもの遊びも同じ。生産的で、効率的な状態(これの究極がコンピュータ?)ではない、意味もよく分からない様な、どちらかと言うと大人目線ではアホくさくて、しょうもないこと、シュールなこと。そういうものは、仕事とか教育カリキュラムの様な目的的な作業や活動に対して、「ぴったり」していません。遊びって、行為を指すのではなくて、その人の状態やあり方を指す言葉なんですね。(たぶん) んで、、、、(つづく) #
by tatsuwat
| 2009-02-05 00:09
| おもちゃ論
私たちは感動や楽しみに対する主体性を失っていて、それらはサービスとして提供されるものだと勘違いしているのかもしれない。
そこに、テーマパーク的なアミューズメントやエンターテイメントが「遊び」混同されている現代社会のゆがみが見えたりする。気がする。 自分で感じ、自分で主感としての感情や感覚、感想、気分を見出す。自分の責任というか、納得感を拠り所に。 自分で感じる。 以外とむずかしいけどね。 #
by tatsuwat
| 2009-02-04 22:47
| おもちゃ論
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