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「プロダクトとしてのおもちゃを買う行為は、写真を撮る行為に似ていて、子どもの前にあるプロダクトとしてのおもちゃは、撮られた一枚の写真に似ている。」
僕のノートによれば、今年の2月にそんなことを考えていたらしいのです。 このあいだパラパラと見返していて、何のことだかさっぱり分からなかったのだけど 友人に説明しながら、多分こういうことなんだろうと、分かってきました。 「おもちゃを買う」という事は、つまりは子どもへの想いが表現されたという事でもあります。(そんな想いなんてありゃしない購買の現場はあまた見てきましたが、、、)つまりこれは買う人の一つのメッセージ。 「写真を撮る」という事も、誰かに見せる事を前提としている場合は、必ず意図して画面を切り取っている。その構図やフォーカス、対象によって、メッセージを込めていたりするものです。そういう点で、両方とも、行為にメセージがのっかっている事が多い気がしたのです。 でもそれって、本当に伝わってるだろうか。もしくは、果たして正確に伝える必要があるのか。そこがこの話のポイント。 今のところの僕の結論から言えば、 「一つ一つのモノに込められたメッセージや想いは、なくてはならないが、必ずしも伝わらないし、伝わる必要もない」 という事です。つまり、一つ一つの写真やおもちゃにこめられたメッセージや想いは正確に伝えたかったら直接言うか、手紙でも書いたらいいのです。それでも究極的には伝わらない事の方が多い。なぜなら、それを生み出した人の手を離れた時点でそれはもうその人のメッセージから離れて、誰かとっての意味や解釈でしかなくなるからです。 一つの写真から何を感じるか、人それぞれ、それでいい。おもちゃだって、作り手や買う人の想いがあっても、そのままでは子どもの遊びに直接的即時的な影響は与えられないし、それでいい。写真を見る人、おもちゃで遊ぶ子どもに対して、その意味は開かれているべきだと思うのです。 でも、だからといってメッセージや想いがいらない。ということではない。 ここからはおもちゃに限った話ですが、そうした一つ一つの想いはそれ単体で意味をなすのではなくて、そういうモノで囲まれた環境、もしくは想いのこもったおもちゃを買う大人のあり方、そうした(全体的で環境的で)緩やかなメッセージ=「愛情」となって子どもに伝わっていくんだろうと、そう思うのです。 そういう「想いのリレー」が、作り手から販売員、買う人、そして子供たちへと緩やかに流れていく、そこにこそ、ものづくりの視点から見たおもちゃの大切なエッセンスがある気がするのです。
by tatsuwat
| 2008-09-11 01:11
| おもちゃ論
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